destiny is matter of choice

日々のこと、旅のこと。徒然なるままに。

【エッセイ】インドは、命の在り場所の見えるところである。

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 十人の人が同じ情報を頭にぶち込んで、「自由の女神」を見た場合、皆同じようにしか見えないんだね。今の情報化社会の旅はこの病が恐ろしく深い。

 

これは、藤原新也が1960年代にインドを旅して書いた、「印度放浪」からの一節である。歳もあけて2019年になったのだけれど、私が手にとっているこの文庫版の初版は1993年である。つまりは、2019年に生きる私たちにとって「情報社会」という言葉は個人が発信する情報と、個人が抽出する情報の社会を指すように思うのだけれど、90年代の「情報社会」というのはすでにガイドブックが発行されていて、誰かが既に体験した旅をなぞるような「見聞きしたものをなぞる」旅のことだったのだろう。Windows95が流行る前にこんな風に感じた人がい他ことに驚く。つまりさらには、25年も経てば、また「情報社会」というものが、同じものを繰り返しで溢れた後の「整理されて抽出されきって画一的な」ものになっているのかもしれない。

 

そもそも旅は「自分だけの道」をいくものであって、それをなぞらうようにしたり、見聞きすることは良しとして、それを真似する行為はそもそもに矛盾しているということなのだろうか。

 

高い人格の人間と出合う旅イコール良い旅、ということでもない。どうしようもなくくだらない奴から、次元の高いのまで、むしろどれだけのバリエーションが旅の中に展開されたかだね。それが旅の豊かさだと思う。

 

人は鏡だから、振り幅が大きい旅であればあるこそそれが良い旅だったように思える。それが、悪いだけとか、良いだけとかだときっとそれは単調だから、「振り幅の大きさ」が旅の良し悪しを決めるのだ。

 

例えば、自転車旅行者は9割は単調だったり、苦だったりするという。でも、残りの1割がとてつもなく生々しく振り幅が大きいから、それがクセになってしまっていたりする。日常を楽しんでいる人も同様で、「仕事なんて辛いことの方がほとんどだ。」と割り切ってしまっている奴の方が、清々しく笑っていたりする。それは、きっと些細なことさえも、辛いことの中に咲く花のように大切に思えるからなのだ。

 

2000年以降のいわゆる「同世代たち」のインド旅行記を読むとやれ、インド人は道を知らなくても間違った方に案内するだとか、タクシーがまっすぐ目的地に行ってくれずに土産屋ばかりに寄り道するだとか、そんな話ばかりだ。インドの子供達の愛くるしい写真をさぞ特別なもののように書籍にさしている写真ばかりで飽き飽きしてくる。いつから、旅はそんなものになったのだろうか?思えば、10代の後半に旅に憧れを抱いていた時に読み始めたいわゆる正統派の放浪の旅人たちの書籍はもっと「ルポ」らしく、下川祐治さん、小田実さん、沢木耕太郎さん、そして藤原新也さんなどの紀行を読むと緩くなく「感性ずぶっずぶに研ぎ澄んでました」的なものが多かった。それが6070代に旅をした世代の特徴だったのだろう。

 

90年代の石田ゆうすけさんはエンタメたっぷりで2000年代組をひっぱったそんな存在だと思う。いつしか、2000年代組の中で旅がポップで、日本からドロップアウトしちゃった人たちでなく、おしゃれな人たちがするものに変わった段階から方向性は変わってしまったのだろう。

 

実際にブログを認めながらも、こんなにも現代の世代は稚拙な言語表現で、表面的なことしか話せない国語力しか持ち合わせなくなってしまったのだと、大人にして自信もそう思う。

 

もちろん、それは社会を生きていく上で「わかりやすく」「人に伝わりやすい」文章や言葉なのだろうけれど、そもそもルポや紀行における文章なんて、感傷的でふと日常では知る由もないような言語表現で五感が表現されるからこそ美しいものだろうというのに。