destiny is matter of choice

日々のこと、旅のこと。徒然なるままに。

出会いと別れ

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お別れが悲しいんじゃない。

出会いが嬉しいことなんだ。

 

シェアハウスに住み始めて2ヶ月が経過した。

こんなご時世に、そんな暮らし方を始めて・・・。と言われるようなことかもしれない。

 

先日某SNSの投稿を1年ほど遡っていたら、コロナ前半に、自粛要請等が発生する2月に参加したイベントを発見し、もう1年が経過したのだな、と気がついた。

 

1年前、どんな暮らしをしていたか、どんな心理状態にあったのかを思い返す。

 

環境を変えて、誰も知っている人のいない街で暮らすという選択をした時に、自分にはシェアハウスで暮らすことが絶対条件に思えた。

 

そして、2ヶ月が経過し、新しい仕事に慣れることが最優先でやってきた。

 

生活リズムが整い、職場に馴染んで楽しく働けそうと思えたり、周りの人の輪郭が少しずつ定まってきたり、少しずつ横浜の街・職場のある川崎がどんな街なのかをしり、お買い物場所がわかってきたり、会話を楽しめる相手がシェアハウスの中で誰なのかがわかってきた。

 

できたこと・わかったことは別の機会にまた考えるとして、はじめてその生活の中で別れがやってきたことに対して発生した感情を記録しておきたいと思った。

 

シェアハウス生活の中で、心地よい波長の人がいた。

といっても、総コミュニケーション量でいったら、2ヶ月住んで、5回くらいしかなかったんじゃないかと思う。2・3日に1回会う人もいるから、少ない方だ。

 

この人ともっと仲良くなりたいな。会話の相性がいい人だな。いいエネルギーが貰える人だな。あ、この会話の感じ、今、必要な人だな。ちょうど探してた人だ。

 

そんなことを感じ始めていたのが先週のこと。

昨日、その人がお引っ越ししていった。

 

お別れの挨拶はしてくれたのだけれど、これからも繋がっていたいです。という想いを具体的なオファーにできなかった。

 

「もっと、知りたかったな。」という言葉が精一杯だった。

 

「おしゃべりしようよ。もくもく会しようよ。連絡先、教えて?」そう、言えなかった。

 

生活環境を変える選択を選んだその人を、心から応援したいと思う。

最後にかけてくれた言葉が、「がんばって。」だった。

 

気持ちの整理がつかずにその後の時間を過ごす。

自分がシェアハウスに住み始めて、はじめて。人がいなくなった。

見送る側の苦手さは、経験済みなので、消化できる。

 

それよりも、今回は、ご縁のチャンスをしっかりとしたアクションにしなかったことに消化不良を感じた。

 

いる場所を知っているから、これから、いつでも会う機会があることが当然だと思っていた。

 

素直に、他者に対する興味を示せなかった自分の苦手がでてきて、きゅっとなった。

 

今ある、ご縁を思う。

少しのズレで人の繋がりは、発生すらしない。

偶然の再会時に会う約束をしたり、もっと知りたいと思えたらすぐに意思表示をすることで、意識して、選択して繋がりを保っている。

縁を作ってくれた人たちとのはじまりを思うと、いつもちょっと強引なほどにしっかりアクションを起こしていたな、と思う。

 

・前職でスカウトしてもらったとき

・今の職場の社長が札幌まで会いにきてくれた時

・好きになってくれた人たちがお付き合いを始めるきっかけを作ってくれた時

これは、全部と言っていいほど、そうだったな、と思う。

 

その中でまたそれを受け取るのか否か、というのもあるけれど、

まず、「ベクトルを向けてくれた」「受け入れてくれた」「関心をしめしてくれた」ということが伝わることがスタートラインなので、それをしなければ、どんなことも始まらないよな、と思う。

 

人が示してくれる興味を受け取るばかりで、初めのアクションを自分から起こすことを苦手と言って甘えていたと思う。

 

示した関心を受け取るかどうかは、相手の判断に委ねるとして、まず、自分も他の人たちがそうしてきてくれたように、受け身じゃなくて、与える側になりたい。

 

朝起きて、思い出した。

この別れの感覚を、知っている。

 

カミーノで一番初めのお別れが、10日ほどを一緒に過ごしたドイツ人のヘンドリックだった。年下で、お相撲さんみたいに大きな体格のヘンドリック。繊細な心の持ち主で、優しい人だった。同じグループにいたのだけれど、彼の場合は、期限つきの旅行で前もって、それを周りに知らせてくれていた。

 

前日の夕方、イベントを一緒に過ごして、少し会話をする。別の宿に泊まっていた。最終日の朝、今日は彼と歩きたいな。まだ、聞きたいお話があるな。と思っていたら、偶然に寝坊をした。そして、宿を出ると偶然にそこにヘンドリックがいた。

 

他の友人と最終日、一緒に歩く。街についても、同じ場所で一緒に食事をして、夜行バスに乗る彼をみんなで見送りに行く。

 

「さみしいな・・・。せっかくなかよくなれたのに。」

 

そんな言葉をもらした私にヘンドリックは、言ってくれた。

 

「別れが寂しいんじゃないよ。

出会えたことが、うれしいんだ。」

 

そう。だから、新生活を選んだその人に自分も、

 

「がんばって。」

 

と声をかけたいと思う。

 

ほんのちょっとの時間でも影響を与えてくれる人がいる。

  

しない後悔を悔いて、私が余裕を感じた時に、共通の知人に、声をかける勇気を発動するかもしれない。

 

はたまた、次に別の人との縁があるときに、勇気をもって、自分からアクションを起こそうということを思い出せるのかもしれない。

 

人が背負える荷物には限界があるから、それとの調整。

 

「かもしれない」が「する」に変わるだけの時間を一緒に過ごせなかっただけ。

けれど、それを超えるくらいに強引に時間を作る努力をする関係もある。

 

そして、もう少しだけ 人に「会いたい」ということが、気軽でない日々が続く。

 

だからこそ、一期一会を大切に。

 

多分、この人は自分にとって、出会いの機会の希少さを教えてくれる存在だったんだな。

 

別れを悲しむのではなく、

出会えたことに、感謝します。

 

札幌から横浜に移って、2ヶ月。

まだまだ、自分の中に染み付いた季節の感覚は札幌のままだ。

 

2ヶ月分、季節を先取りしていると毎日感じている。

 

まだ、2月は冬だと思っていたのに、春。

4月に咲く梅の花が、2月に咲いている。

 

その分だけ、出会いと別れの季節も先取りしたみたいだ。