東海道五十三次
2020年1月22日 水曜日
東海道通算13日目
本日のルート
二川〜6.1~吉田~10.2~御油~1.7~赤坂~6.4~本宿 total 24.4km
本日の歩行数:41,749歩
江戸日本橋から通算315kmくらい
本日の宿:グリーンホテルリッチ徳川園
8:00~16:00
遠州の空っ風から少し解放された1日だった。
今日は、宿泊のアパホテルが11時チェックアウトということもあり、前日の終了地点まで二川まで電車で一駅戻って、荷物を豊橋のホテルに置いたまま早朝ウォークすることにした。
10kg近い荷物から解放されて、水筒だけを持って、近所をウォーキングするような出で立ちで、歩き始めた。
スイスイすすめると自然と気分が明るくなる。
だいぶ通し歩きに慣れてきて、足の痛みもなく、小さな感動が薄れたり、淡々と毎日を送らないように気をつけなければいけないと思う。
有酸素運動だけではダイエットが難しいということもあり、途中で筋トレを挟めるようにこのようなスケジュールにした。
そして、1日1日を最大限に有意義に過ごすのに、ポジティブに「淡々とした時間をいかに上機嫌で過ごせるか」ということを、この毎日の歩きを通して試行錯誤したいと思ったのだ。
また、東海道は53の宿場があるとはいえど、残念ながら現代はすべての宿場に泊まれる場所があるわけではない。
旧道沿いは、昔ながらの民家があるおかげで、どの地方にも生活のためのバスが走っている。
そして、幸い東海道は列車沿線から、さほど外れることがないので、一番効率良く時間を活用としようとするとおのずと、今日はここまで、その先の~まで移動して、明日は戻って続きをやろうというのが現代の自然な東海道歩きのスタイルのように思えた。あとは、午後になると気分がだれてしまうので、それなら早々に歩きをやめて気分良く1日を過ごす方向にシフトしてもいい、と考えるようにしたこともある。
御油から、赤坂まではたったの2km、と思っていたら、実際にはつながっているような宿場だった。通常、宿場は2里、つまりは8km程度の感覚で置かれたのだが、ここは江戸時代の松並木を歩いて、10分もしないうちに赤坂宿の目印が見えてきた。
浜松~豊橋のあたりは戦火の影響もあり、あまり東海道の街並みがのこされていなかったので、状態のいい町が残されていて嬉しい。
途中、工場を抜けたところ、この地方の赤味噌をつくっている会社さんということだった。
そして、赤阪宿の一番の目玉は、旅籠「大野屋」だ。
大野屋は、2019年の4月まで、東海道中最後まで営業をしていた旅籠である。
江戸期には、「こいや」という名前だったのだが、昭和の初期に所有者が変わり、名前を変えている。
大野屋も営業を終えてしまい、ついには、御油、赤阪あわせて100以上の旅籠があったというのだから、全盛期の東海道徒歩旅がどれだけ、町を賑わせて、そして、それがいかに衰退したかがわかる話だと思う。
大野屋は、全所有者のおかげで現在は豊川市の所有になり、入館無料の資料館となっている。ボランティアガイドの方に、お話を伺った。
間口が狭く奥に長い宿場町の作りだが、現在の大野屋は手前部分を残し、奥の建物はなくなり、間取りを残す庭の石になっていた。写真手前の灯篭とソテツは、広重の浮世絵にもかかれたものの再現だそうだ。
隣にあった脇本陣もなくなり、赤阪宿最大の旅籠だった大野屋は、明治の時代に天皇も休んでいる。
その玄関は現在閉じられているが、「質素倹約」の華美なデザインを持たない江戸時代の建築様式と比較して、明治天皇が来るときにささやかながら、カラマツの彫り物を玄関上に、施している。
江戸と明治がいかに異なる時代だったかを物語っているようだった。
興味深かったのは、こういう建物は、立て直しを多く経験しているが、こちらでもその昔2Fの梁の上に、謎の米俵があったそうだ。
それを、昨年いよいよ、開けてみると、様々な土地の神社仏閣のお札、そして、むか~し昔の「宿屋ガイドブック」、地球の歩きかたみたいな冊子がでてきたそうだ。
昔の観光旅行も、神社仏閣に詣で、そして、そこのお札を土産にしていた名残だ。
今は、誰かにお札を買ってくるということはないけれど、日持ちのするもので、軽くて持ち帰りが簡単で、そして信仰のために旅はあったわけだから、一番理にかなったお土産だと思う。
そして、ここにも芭蕉の句が残されていた。
山形の立石寺でも、芭蕉の句があったな~、なんて思い出したけれど、彼は本当に江戸期きっての、旅人スターだったのだな、と思う。
江戸と京までの距離が昔の単位でかかれた標識はここに来て初めてだった。
明日から、1週間雨が続く予報。どうやって旅をしてゆこうか。