旅の終わりに振り返りの思いをまとめるのが好きだ。
その時の感情消化や思考整理としてだけでなく、
それは、数年後の自分へのプレゼントにもなると気がついたのは、最近のこと。
温かい気持ちの時も、重々しい気持ちも、写真よりも文章に収める方が、のちにその時に感じたことを呼び起こすことができる。
しばらく読書から離れていたら、文章を書くこともめっきり減り、語彙力が落ちてしまったので、最近また小説を読むようにして、そして、言葉を紡ぐ。
「今だから、出来ること。を先にやろう。」
「やりたいことを、先にやろう。」
「どれを優先して選んだら、後悔しない?」
「明日死ぬとしたら、今日、何をする?」
「心の矢印はどっち?」
日々、そんな、自問を繰り返している。
30代半ば、ようやく時間が有限であることを理解し始め、また一人で人に求められるのでなく、自分がしたいようになんでもできるという主体性をより強く感じられる環境化に身を置いて、そうなるのは自然なことだろう。
荒々しくも混乱したエネルギーを鎮めることだったり、孤独の中で内省した後に得られるものを知っていたからこそ、この春までの時間、私の答えは東海道と四国遍路だった。
一歩一歩、本当に言葉のままに、一歩一歩と、歩みを進める。
歩き旅を重ねる中で確実に、歩き方・荷物の選び方・一日の使い方・思考のめぐらせ方・姿勢の作り方・物事の見方・幸せな思考の作り方・・・どんなスポーツも、仕事も、趣味も、練習を重ねて積み上げて培っていけることがあるように、スタートからゴールまで、やはり歩くという行為に人生や目標を重ねて、勉強させてもらっている。
歩行という意味での歩き方を大人は知っているが、人生の歩みを上手に進められない時に、「人生の歩き方」を再確認させてもらっている。ということなんだろう。
ここ数年、海外ではなくて日本を旅して、知っている文化の中で、その土地独自の些細な個性というか、地方性に触れたり、より細やかな深み、のようなもの感じられる旅に惹かれてきた。
それは、価値観のグローバル化が進んで世界と日本どちらでも…ということもあれば、年齢を重ねる過程での通過儀礼のように起こる日本人ゆえに日本文化を深掘りしたい欲求であったり、そもそも世界全体が「目的のある旅」「テーマのある旅」にシフトしているその流れの一片でしかないのかもしれないけれど。
そんな自問の先にあった東海道五十三次だけれど、広重の浮世絵に触れる美術あり、江戸~明治~大正と変化した街道の成り立ちお思えば歴史、富士山のアングルとか気候とか地方の特産品を知ればそれは地理、建物を見たら建築のお勉強、宿泊施設に泊まればその地域の宿泊業、そんなこと言ったら食べる食事はすべて食育の時間で、手洗いで洗濯をする時間は家庭科とキリがないのだけれど、文化としての旅を好きという気持ちを改めて感じる場でもあったと思う。
つまるところ、旅は環境を変えることで日常とは違う観点から学びやすく、「一次情報を通して、それを身にすること」、「社会見学が好き」、「経験値を上げること」、好奇心・向学心をくすぐり、知識・思考欲が満たされるのが暮らしになることがここまでも好きなのか、ということなのか。
そして、こんなありきたりの気づきが得られることに、幸せに感じられる。
それが、東海道の時間がくれた、一番かけがいのないものなのだと思う。
印象的だったこと
・横浜市から見えた富士山
・箱根の峠超え
・どこまでも続く…静岡
・日本の旧街道の美しさ~特に関宿
・宿場町の矜持
・本州の冬の暖かさ&そう感じる道産子の体質
・郊外が切れ間なく続く京都~東京の国土感
・自動思考の恐ろしさ、
・それでもポジティブになる方法
・日常生活への渇望
・終わりよければ、すべてよくなっちゃう感じ