destiny is matter of choice

日々のこと、旅のこと。徒然なるままに。

【自己分析】適職診断*自己分析 転職・適職診断を自己理解から始めるということ

2020年は、キャリアデザインから始まり、じっくりと時間をかけて転職活動をしたことで、自分の立ち位置と未来に行く場所について、考察を深められた一年でした。

 

●キャリアデザインについての自問をする

●自己分析の質問に答えることで、自分の特性・好き嫌い・強み弱みを客観視する

●その結果を積み重ねることで、共通項を見出し、より確固たる自己イメージを掴む

 

方法は、

●キャリアデザイン系の本を読んで、ワークする

●ネットの自己分析系質問を受ける(無料系で十分です)

●コミュニケーション系ゲームの質問に答える

●星読みから特性をひろう

等々。

 

まとめとしては、

●メモなり、ブログなりに蓄積する

 

活用としては、

●自己肯定力の低い時に見返して気分をあげる

●繰り返し目を通すことで、いいところに着目する(アファメーション的効果)

●自己分析に役立てることで、

●価値観を明確にすることで、ブレない未来への想いを作る

●鎧を纏うことで、新しい人に会う時にその印象になるように心がける

(プラスのプレゼンに役立てる)

 

といったことができました。

 

COLOR INSIDE YOURSELF(CIY)

https://ciy-work.com/person

 

時に認めたくない自分も、いくつもの分析をしても同じ結果になると

「私はチャレンジャーなんだから、しゃ〜ない」と、

ありのままの自分を受け入れる訓練にもなるなぁと。

 

今年も残りわずか。新生活に向けて調整していきます。

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絵本ログ:100万回生きたねこ

大人でも、子供がいなくても、幼少期に絵本に触れていなくても。

 

本が好き、からの自分にとって、絵本ブームがきています。

 

その気軽さ、奥深さ、豊かさ。に立ち返り、絵本探訪を進めてみようと思います。

 

まずは、図書館で一度読んだメジャーというか、記憶にある絵本をおさらいから。

 

絵本ログ002 100万回生きたねこ

 

作•絵  佐野洋子

年   1977

出版  講談社

 

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佐野さんは、おじさんのかさが小学校の教科書に載っていたから、そちらの方が馴染みがあります。

 

独特の水彩画、青色の使い方が印象的でしたが、100万回生きたねこは、モスグリーンが印象的でした。

 

どうして、100万回生きたねこは、白いねこに惹かれたのだろうと好きを問うことは、無粋です。

 

が、リアルに自分にメリットを持ってくる取り巻きよりも、自分が勘違いして天狗になっているエピソードも、自然と出会った白いねこが教えてくれる。

 

運命にあうまで、100万回。愛を知るまで、生き続けなきゃいけない呪いとまでは言わないけれど、可愛がってくれる飼い主たちに嫌いエピソードが表に出てくるのは、何度生きたって、幸せじゃないし、たった一度の人生で白いねこはすごく幸せになれるよね。と、いう。

 

自分よりも、好きになれるというのは、究極の愛で。

 

ただ、白いねこ行動型より、受け身だから、2匹の猫は、対極的なコミュスタイルながら、それは描かれきらずに伝わるようになっていたように思います。

 

ふーん。あんたの魅力ってそこじゃないでしょ?とか、別に問うのでもなく、興味がないでもない。

 

雄、雌の関係でいったら、つまるところ、追いたい雄をそう。。。ということばだけで、めっちゃ上手に導いちゃってる白猫の人生一回目における天性の女力がすごい、と思うのは、スレ過ぎた大人目線なのでしょうか。。

 

できるものなら、この白猫のように立ち回りたいけれど、やってるのは、おおきな木だなぁなんて、考え中。

 

 

絵本ログ:おおきな木

大人でも、子供がいなくても、幼少期に絵本に触れていなくても。

 

本が好き、からの自分にとって、絵本ブームがきています。

 

その気軽さ、奥深さ、豊かさ。に立ち返り、絵本探訪を進めてみようと思います。

 

初回は、 おおきな木。

 

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作•絵  シェル•シルヴァスタイン

訳   本田錦一 1976 篠崎書林

    村上春樹 2010 あすなろ書房

原題  The Giving Tree

年   1964

 

この本は、以前、友人に思い出の本としてエピソード付きで紹介をされた本です。

 

だから、訳の違い、木が女性として原作では書かれていること。

 

この本は訳書によって読み比べる本の代表だと思うのだけれど、そもそも日本語訳で読み比べにならなければ、解釈は一つなのか?という話にもなってきます。

 

個人的には、本田さんの訳一択だと思っています。

 

出版や訳の著作権とかは、わからないけど、最訳、最解釈がないことのほうが素敵だったのではないか、と。

 

理由は、

言葉に絵本らしさを残しているから。

挿絵の木の落書きが ぼく ではなく、たろうという名前表現だから。

与える愛の解釈に投げかけをするだけで、読み手の解釈を決めつけていないから。

 

後書きを読んでも、本田さんはエーリッヒフロムの話を交えて、与える愛に対する問いかけを読者に語りかけています。

訳者として、その本を伝える、とはそういうことなのでしょう。

 

ここでは、与える愛について、話をしようと思います。

 

き は、与えられたから、うれしかった。それは、きの主観であり、それは疑ったり、別解釈をする必要のないものなのだなと思いました。与える愛の受け取り手側に自分を投影するのならば、これは、苦い物語です。

 

きは与えたいから与えた。それにより、相手がどうであれ、自分が満たされた。

もちろん、ぼうやが遊んでくれる時期は、受け取る愛でも、きは満たされていたけれど、それがないからと言って、それが愛のベクトルを向けない理由には何らならないし、疑いなく与え続けられることは、とても幸せです。

 

きに感情を寄せるのは、私がその母性に共感する女性だからなのかもしれません。

 

ぼうやが大人になり、Takerであることについては、それを善悪も評価をする意味もないと思います。こういう人は、いますし、自分にもその要素が全くないとは思わない。タイミングもあると思う。以前に、与える対象でいてくれるだけで、感謝だなぁ、と。

 

その人のがどうであれ、自分が与えたい姿勢を貫くし、その対象のいる幸せ。

 

ほんだ きんいちろうさん訳の、おおきな木が好きです。

 

【旅日記】四国遍路 2020/4/14 高野山奥の院〜帰宅

旅をするときだけ、日記をつけている。

 

読み返すことはあまりなくて、アウトプットしながら、頭が整理されることの方が目的だ。だけれど、数年経って読み返したりするときに、日記って本当に面白いなぁと思う。

さして、人様にさらすようなものではないのだけれど、Macの容量がただただやばくて、メモを整理したい、という理由だけで、少しずつ小分けにしていく。

 

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4/14

高野山奥の院、寺へ

満願。

移動は3時間

てんきがよければ、ロープウェイの下り歩きするか?

奈良大仏でもみに行くか?

関西空港でねる

 

礼を持って接するということ。祈りというのは、本来人のためにするものなのかもしれない。私の幸せが、私の大切な人の幸せ。

 

昨日、オープンということもありMさんは、一息つけたみたい。夜中に、電話。仕事のアプローチ方法をメモにとっていて、起きていた。とても、大切に思ってくれていて、それを行動にしてくれている。1ヶ月会わずにいて、近くにいたい気持ち、未来のこと、幸せにしたいと思ってくれていること、そんなことも電話ではなしができた。自分でするのにも、声が聞きたいって、私を、思ってそうしたいってなってくれていることがとても愛おしい。彼を思うときゅん、とする。もっと、愛したい。もっと、大切にしたい。

お寺で過ごす時間は、とても美しく、丁寧な暮らしや振る舞い、日本人やじょせとしてのたしなみを考える。

朝のお勤めは、そう、ガンジス川の畔でみた祈りの儀式のようだった。使っている仏具や、火の扱い、朝から正装のお坊さんたち。部分的な似ている部分と、偶像崇拝護摩師などどくとくなところはあるけれど、お経自体。祈りの歌であり、それを現代語でなく昔の言葉のままだから、仏教はイスラムコーランよろしく、よいのかもと思えた。キリスト教みたいに各国語訳がすすんでいたら、もっと布教できているのかもだけれど、そうでないからこそ形が保たれている部分があるように感じた。香の香りがこちらに向かって来る。お坊さんたちの歌を聴きながら、所作に目をやりながら、これを毎日毎朝している人たちがいることを忘れないようにしようと思った。ガンジス川でも今日も祈りがあり、マラッカでは今日もアザーンが聞こえて、通勤電車に乗る人がおり、仕事に打ち込む人がおり、走る人がおり、歩み続ける人がいる。色々な日常があって、いいんだと。多様性のある美しさ。各々が自分の選んだことを、継続するまっすぐさ。素直さ。

互いを認められれば、共存できるし、尊重しあえる。

こういう暮らしもある、ということは、やはりその中に入り、実体験しなければ、わからない。

そういう意味で、私は他者と共存すること、どう協調性がこのあとはかって行けるか、謙虚という言葉を唱えるだけでは足りないものを、想像できる種をいただけたな、と思った。

作っていただいた朝ごはんの繊細さ、それを自らの知識にいれ、お茶を注ぐその水の音に丁寧な所作をする繊細さの大切さを学び、時に静寂の中に聞こえる呼吸音、鳥の声、雨音、匂い、食感、触感、愛しい人の温もり、一つ一つを大切にしたい。

明日死ぬかもという想像と、今を生きるその発想の出所は同じだ。

そして、お坊さんがコロナのことや、過去の震災で苦しんだ人のために祈り続ける。困って戸を叩く人を受け入れる。その心を私も持ってゆけたら、同じ優しさをもつ人たちと共鳴してゆける。大師と共にゆくだけでなく、関わるすべての人と、共に、ゆける。そうしていれば、私が扉を叩いたり開ける時も、それに応えてくれる人があらわれるだろう。

 

最終日にも、ウグイスの鳴き声。

 

4/15

関西国際空港終わりー

 

0415日(水)

JAL2501

大阪(関西) 09:20

札幌(新千歳) 11:15

 

 

ーーー

 

また、次の旅へ。

【旅日記】四国遍路 2020/4/13 高野山へ

旅をするときだけ、日記をつけている。

 

読み返すことはあまりなくて、アウトプットしながら、頭が整理されることの方が目的だ。だけれど、数年経って読み返したりするときに、日記って本当に面白いなぁと思う。

さして、人様にさらすようなものではないのだけれど、Macの容量がただただやばくて、メモを整理したい、という理由だけで、少しずつ小分けにしていく。

 

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4/13 Day35

1 結願

1km

板東駅 8:19

徳島駅    8:44

バス 四番?

ここで、昼、買っとく?

8:55

25分?

9:20

 

徳島港フェリー 11:00

和歌山港 13:05

和歌山港駅13:20

高野山15:51

高野山宿坊泊 

無量光院 26000

 

朝ごはんに洋食のお接待と布マスクをいただく。高原さんは、気仙沼の出身でplに進学してから、保育所経営や。猫のといれすなの経営をしていたそうだ。深い人生を送った年配女性は、話に深みがある。やりたいことをやってきた。お金を払ってでも、やりたいことをやる。情報を集めて、正しく選択判断して生きる。根本が古典的に正しい精神に基づいていれば、経営も人生もうまくいく。松下幸之助とか呼んだらと言われた。できることを時代に即した形で、やり淡々と勉強をかさね、役立てるところで社会奉仕するだけだ。お寺へ。空で、読経。本堂でも大師堂でも涙が流れた。納経所で、記念に外国語のガイドブック今年版を購入。満願記念の腕数珠をいただく。お金では、かえないもの。名前入りの記念。逆打ちのスタンプ。35日。四国風土をよく、見えた。仕事も、リモートになるために必要なことを足で稼いで、人と直接、繋がる。私は、それで、いい。本質を大切にしよう。徳島港までは、歩かないことにした。走るとフェリーを逃す可能性もあったので、限界を加味して、時に頼ることや、選択する子ど学んだ証と思いたい。

移動は結局、11:00フェリーから、高野山すきっぷを使ったけれど、10本の電車、バス、ケーブルカーを乗り継いで到着は17:30だった。未来のことをメモですすめつつ、移りゆく景色を見ながら、今を生きてはいなかった。すべて、五分間隔での接続だった。そして、高野山の鉄道は、極楽橋から三人のみ。ケーブルもバスもすべて南海フェリーからつながっているから、乗り逃さないように次の運転士さんに導かれる。登山鉄道のように、鬱蒼とした中を、時に一本しかないレールやトンネルのすれ違い待ちで、留まりながらすすむ。途中見える集落は四国でみたよりも、奥地で斜面に畑や家を作り、限界集落ばかりだった。各駅に駅員さんがいて、それでも無人でない。雨が一日降り続く。この鉄道と、バスは高野山の神聖な雰囲気をよく醸し出していた。パワースポットってこういうことなのかも。苔むした精気を纏った山。それでも、高野山につくと、街は大きそうだ。車も多く、一宗教の集落なのに、生花店、プロパンガス、菓子店、喫茶店、郵便局、観光土産店もあるけど、集落としてはすこぶる立派。院もたくさんあり、同じ宗派でこうも寺があって、檀家さんのかずがどうなんだろうとびっくりしてしまう。無量光院も安いのに、立派。旅館よりもいい。wifiもあるし、外国人対応もすすんでいるし、食事は板前さんもいて、浴衣に土産のフェイスタオル。温泉旅館のように、おやつと、部屋食。ま!コタツに、素晴らしい襖絵と調度の床の間。尼さんだけでなく、見習いのような高校生くらいの坊主がお世話してくれる。食事を持ってきたり、お風呂の上がり時間を見たり、お膳を下げるのを寒い廊下でまったり。こちらが勉強になる。奉仕とは、こういうことなの?そして、風呂で一緒になったおばさんたちは、食事の手伝いなどをしているようだが、尼さんではない。でも、安く住まわせてもらっている。どうやら、お寺にはこういう役割もあるのか、と思った。やっぱり、そういうのは宗教なんだなぁテレビがない、それは静寂や連れ沿いとの会話を楽しめる時間がある、ということ。思えば日本家屋は、戸の開け閉めの音がしたり、雨音が二枚の戸越しにも聞こえて来る。それを大きな茶葉でいれたお茶を飲みながらいただく時間はこの上なく、贅沢で豊かだ。漱石の時代には旅行をしたら、何時の汽車に乗って。。なんて、日記をつけていたのに、今の私たちはそんなことをしない。敢えてそういう時間を作る必要は、どうしてあるのか、ということを考える時、一人の時間が沢山あるのは、いいことだなと思った。だからこそ、限りある他者との関わりには特に丁寧に、心を込めて、接することができればな、と思った。

 

【旅日記】四国遍路 2020/4/12

旅をするときだけ、日記をつけている。

 

読み返すことはあまりなくて、アウトプットしながら、頭が整理されることの方が目的だ。だけれど、数年経って読み返したりするときに、日記って本当に面白いなぁと思う。

さして、人様にさらすようなものではないのだけれど、Macの容量がただただやばくて、メモを整理したい、という理由だけで、少しずつ小分けにしていく。

 

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4/12 Day34

7時には10番!

-10 8km

-9 4km 12km

-8 3km 15km

-7 4km 19km

-6 2km 21km

-5 6km 27km

-4 2km 29km

-3 5km 34km

-2 3km 37km

-1 2km 39km

1-2ならお遍路ハウス一番門前通り2800

6:20-17:20

ほぼ、平坦。でもお寺が多いので、あきない。今日中に全て打てるか、そればかり考えていた。和歌山まで行きたい気持ちもあった。札幌に早く帰りたいのだ。9番の前で、草餅。カーボローディング。雨と風邪で最高気温も一桁だし、とにかく着込んでも寒かった。ホットドリンクでなんとか。寿にかおおだしたくて、日替わりランチで立ち寄る。ここの卵焼きと、お惣菜、やっぱり、美味しい。はじめの宿だし、お礼状くれたし、よったけど、また満願手拭いをいただき、若女将の仕事ぶり、味、宿の質。ここ、好きだ。今日のお寺は、どこか初めだけ打つ人が多いせいか、華やかでお金を持っているお寺が多い印象。数日前から、宿を当日予約スタイルにしたけど、今。生きている感じ。納経は、どうだろう。感動とか、信心深さは、正直、ない。2番の極楽寺で時間切れ。ここも、4/1から宿坊をやめたそうだ。相部屋で質素な宿坊は、民宿に負けるよう。文化について考えさせられる。お遍路ハウスに電話。140回の先達、高野山の尼さんは、ウンチクたくさん。部屋、汚い。何故かいきなりご飯。サラダちんするとか、いい人だけど、この人もまた四国の押し付けボランティアだ。またか。お遍路ハウスの始まりはわかった。いかに、営利がここには入ってこれないかもわかった。四国にきて、遍路宿をやる外ものは、ほかでは生きていけない系の人たちだな、と思った。ここにはここのやり方がある。いいことも、悪いことも。お寺通しのしがらみ、田舎の面倒くささ、深くにはやはり宗教文化が根強くあり、まだカミーノみたいにはなっていかないと私は思った。そもそも、足並みそろわずに、ボランティアも個人どおしが自分が一番と思い、そのやり方でないものを遍路にたらたら、話をするのは正直迷惑だ。個人で回るのがいい。私は、次は宿をとらずに、宿を取るならお金を払う価値のあるしっかり営利経営しているところを選ぶ。今日は、人に合わなかった。最後に、それも一向。今日、全て回らないのも、明日の感慨深さ?のため?

私にとっては、仏教を学べたこと、遍路文化、四国の風土を学べた機会だった。体力や考え方は、良くなったと思う。けれど、それはお接待のおかげではなく、歩きと自然と、お寺のある目的、ゴールのあるおかげ?とか。

大師のエピソードは、奇跡性が多くて信じるか、というとそれは、お話の世界のように思った。

歩くのは、1番の寺で終わりでいいと決めた。徳島港へも、交通機関。やることは、終えつつも、早く再開することの方が大事。四国ボランティアのような非現実な世界でなくて、私は営利で地に足つけて生きていく。

今日の宿のおかげで、高野山の安い宿坊はみつかったので、そのご縁には感謝し、宿坊も楽しもう。