大人でも、子供がいなくても、幼少期に絵本に触れていなくても。
本が好き、からの自分にとって、絵本ブームがきています。
その気軽さ、奥深さ、豊かさ。に立ち返り、絵本探訪を進めてみようと思います。
初回は、 おおきな木。
作•絵 シェル•シルヴァスタイン
訳 本田錦一 1976 篠崎書林
原題 The Giving Tree
年 1964
この本は、以前、友人に思い出の本としてエピソード付きで紹介をされた本です。
だから、訳の違い、木が女性として原作では書かれていること。
この本は訳書によって読み比べる本の代表だと思うのだけれど、そもそも日本語訳で読み比べにならなければ、解釈は一つなのか?という話にもなってきます。
個人的には、本田さんの訳一択だと思っています。
出版や訳の著作権とかは、わからないけど、最訳、最解釈がないことのほうが素敵だったのではないか、と。
理由は、
言葉に絵本らしさを残しているから。
挿絵の木の落書きが ぼく ではなく、たろうという名前表現だから。
与える愛の解釈に投げかけをするだけで、読み手の解釈を決めつけていないから。
後書きを読んでも、本田さんはエーリッヒフロムの話を交えて、与える愛に対する問いかけを読者に語りかけています。
訳者として、その本を伝える、とはそういうことなのでしょう。
ここでは、与える愛について、話をしようと思います。
き は、与えられたから、うれしかった。それは、きの主観であり、それは疑ったり、別解釈をする必要のないものなのだなと思いました。与える愛の受け取り手側に自分を投影するのならば、これは、苦い物語です。
きは与えたいから与えた。それにより、相手がどうであれ、自分が満たされた。
もちろん、ぼうやが遊んでくれる時期は、受け取る愛でも、きは満たされていたけれど、それがないからと言って、それが愛のベクトルを向けない理由には何らならないし、疑いなく与え続けられることは、とても幸せです。
きに感情を寄せるのは、私がその母性に共感する女性だからなのかもしれません。
ぼうやが大人になり、Takerであることについては、それを善悪も評価をする意味もないと思います。こういう人は、いますし、自分にもその要素が全くないとは思わない。タイミングもあると思う。以前に、与える対象でいてくれるだけで、感謝だなぁ、と。
その人のがどうであれ、自分が与えたい姿勢を貫くし、その対象のいる幸せ。
ほんだ きんいちろうさん訳の、おおきな木が好きです。